2013
Dec
21
2
年の瀬に今更ふりかえる今年後半のこと⑥ 歴児と行く海軍史の旅(3)呉~江田島~広島

(3日目)呉~江田島~広島へ
呉で迎えた朝は、広島で休日診療をしている外科医探しから始まった。知り合いも親戚もいない土地の旅、こんなときは無礼を承知で頼れる人を頼ってしまう。3年近くもご無沙汰している広島出身の鍼の先生に連絡して事情を説明すると、すぐに広島市内の救急診療医一覧表を送ってくださる。料理教室に来てくださっていて広島の神社がご実家のHさんはそのうちどの医院が評判いいかまで調べてくださった。本当に感謝。このお二方のおかげで、夕方に広島入りしてから行くべき病院も見当がついたところで
「すみません…。もう閉める時間なんですけど」
朝食ラウンジのお姉さんに追い立てられる。あー、なんだかどこまでも素っ気ない宿だ。しかしそんな宿でもNはもう少し休ませたほうがいい。チェックアウト時間を午前中いっぱいに延長しNを夫にまかせ、後ろ髪引かれる思いで、Mと二人で残りの呉を制覇することに。
小雨ふる中、まずは「てつのくじら館」へ。正式名称は海上自衛隊呉資料館。潜水艦の変遷や掃海艇の実績など、実際の機雷や豊富な写真の展示で、平和な時代の海上自衛隊がどんな活動をしているのかがよくわかる。大和ミュージアムが戦前の海軍の資料館なら、こちらは戦後海上自衛隊の資料館だ。



海外の海軍バッジも。イタリアの潜水艦バッジ、かっこいいな。

展示建物に隣接して、でーんと鎮座するのが「てつのくじら館」という愛称の所以でもある潜水艦「あきしお」。昭和60年から20年近く活躍した本物の潜水艦に実際に乗船してその雰囲気を体感できるようになっている。こんな狭い空間で、しかも海の底で何日も生活するなんて、宇宙飛行士に匹敵する精神力がないと勤まらないだろう。ざっと艦内を見ただけで息苦しくなってしまった。


さて呉でのもうひとつの大切な目的は、こうした資料館だけでなく、まさに現役の「海上自衛隊呉基地」の内部を見学すること。毎週日曜に限り、有名な第一庁舎の公開、そして呉基地に停泊中の輸送艦や護衛艦などの中から一隻を、これまた日曜に限り時間限定で艦艇公開されるのだ。本物の現役船艇に足を踏み入ることができる貴重な機会ゆえ、呉滞在が日曜になることを最優先にスケジュールを組んだようなものだった。
さて、それではここからタクシーで呉基地に向かおう!とてつのくじら館を後にしようとしたとき、出口付近の一枚の張り紙に目が止まる。
“本日の呉基地の一般公開は中止になりました”
えーっ!うそ。そんなーっ。
雨降りといったって小雨だし、中止になるほどの悪天候じゃない。あきらめきれずに呉基地に電話で問い合わせてみるがやっぱり中止。「雨だからですか?」の問いにも「ええ、まあ…」といった係の女性のモゴモゴした答え方が余計に納得いかない。
がっくり肩を落とす息子を励まし、せめて呉基地に隣接する写真スポットへとタクシーで向かう。日本で唯一、現役の潜水艦を間近で見られる公園とうたわれた「アレイからすこじま」は呉基地の入口を通り越した一角にある海沿いの遊歩道。

周囲は旧海軍時代の赤煉瓦の建物が残り、現在も右も左も自衛隊関連の敷地と建物ばかり。公園とは名ばかりのただの遊歩道というあたりがまたいい。基地の中には入れなかったけど、ここにいるだけでも十分基地の中にいるみたいだ。と、言い聞かせる。

さて、こうして海軍づくしの時間を送っていても、やっぱり母と兄の頭にはNの怪我のことがずっとひっかかっている。そろそろ宿に戻るとしよう。
タクシーはもちろんクルマ自体そう通らない閑散とした道路。自衛隊の正門前まで戻り「本日の一般公開は中止です」の看板を虚しく確認したところで、かろうじて一台だけ停まっていたタクシーを見つけ乗車すると、
「今日は、公開中止になっちゃったね~、やっぱりね~」と運転手さん。
やっぱりっていうと、やっぱり雨だから?
「いやいやあ、不祥事だよ、不祥事。今日の新聞に小さく載ってたからね」
なんでも護衛艦からの燃料漏れが発覚し、しかもこうした不始末が今回に限ったことではないのだと教えてくれた。なるほど、てんやわんやで一般公開どころじゃなかったってこと。電話口の女性が言葉を濁していたのも納得。
ホテルに帰ると、Nはネットキャップの痛々しい見た目を除けば普段とまったく変わらない様子でひとまず安堵。チェックアウトして車に乗り込み、呉から江田島へ渡るべく、今日もフェリー体験。

といっても片道20分程度の、渡し船フェリー。吹きっさらしの場所しかなくてクルマに乗ったまますごすことに。車の数もたった4台という寂しさだけど、これはこれで風情がある。霧にかすむ呉の軍艦たちに別れをつげ、江田島へ。

旧海軍兵学校のあった場所は、現在は海上自衛隊第一術科学校と名を変え、幹部候補生などの学校として今でもエリートが集う場所に変わりはない。陸続きの車で来る人の方が多いようだけど、フェリーの到着時間と見学時間はどうやら連絡しているようだ。敷地内に入る前に早々に住所や氏名など記入させられバッジをつけて中へ入る。すでに集合場所に集まっている人は、この雨の中ざっと40名くらいだろうか。熱気でムンムンしているくらい。
時間がやってきて、退官した元自衛官のおじさま登場。40名の先頭に立ちながら、いざ見学開始。


まずは大講堂へ。海軍兵学校生徒の入学式や卒業式の場として大正6年に建築された鉄骨煉瓦石づくりの立派な建物。ドラマ「坂の上の雲」では、初代教官に選ばれた真之がアメリカで学んで来た兵棋演習を学生たちの前で指導するシーンに使われた場所。吹き抜けの広い講堂内にはどこか厳粛な空気が漂う。


つづいて、広大な敷地のほぼ中央にどどーんと構えるのは、これぞ旧海軍兵学校の生徒館。日清戦争の前の年に生徒の教育の場として、イギリス人設計士により設計、建設された通称赤レンガ。この赤レンガ、なんでもものすごく高級で高品質のものをイギリスからひとつひとつ持ち込まれたものなのだとか。当時の海軍の栄光の極みがぎゅーっと凝縮されたような建物なのだ。実際に真之もこの建物で学んだのだ。
建物の端まで延々とあるいてサイドに回り込むと、一階部分の美しい回廊を遠く彼方まで見ることができる。ここ、ここ、海軍に入隊したモックンが、闊歩していた場所ではないか。ああ、今にもモックンが向こうから歩いてきそうな…

あみあみキャップ姿の幼児も雨の中さんざん付き合わされたけれど、なぜだか機嫌がいい。雨の中の徒歩見学、昨日大和ミュージアムのショップで買った「Z旗傘」がこんなに役に立つとは思わなかった。大きくて便利だし、これだけの人数の中、家族がはぐれがちになってもひとめで見つかる。何より、普段街中でさすのは勇気が要るけど、ここなら堂々と、むしろ自慢げにさせるのが嬉しい。

その後は敷地内に展示されている、日清戦争で使用した主砲砲弾や戦艦大和のそれなどを見て回ったあと、最後は教育参考館へ。
ギリシャの神殿かと見まごう建物は、昭和11年、先輩たちの偉業を学び自己研鑽するための施設として建てられた鉄筋コンクリート造り。すごいな。当時の海軍、どんだけぶいぶい言わせてたんだろ。
40000点もの貴重な戦前の資料が保管されていたものの、終戦時、進駐軍に没収されるのを恐れ多くを焼却してしまったそうだ。ああ、もったいない。
「ここは神聖な場所ですので、帽子をかぶっている方は帽子をとって、傘は必ず傘立てに。中に入ったら赤い絨毯の上を歩いてください。写真もご遠慮ください」
なぜかここだけはとっても厳しい。その理由が入って早々にわかるのだ。
正面の階段をのぼって行ったところにある、扉で閉ざされた蔵のような空間、ここは東郷平八郎らの遺髪がおさめられている「遺髪館」だった。
なんでも終戦後、ここを占拠した駐留軍もこの「遺髪館」だけは「ジンジャ(神社)」と読んで一切立ち入らなかったとか。明治時代の軍神、東郷平八郎が、どれだけ世界に伝説として語り継がれていたかを痛感するエピソードについ胸が熱くなる。
「私は展示をかいつまんでご説明していきますから、それを聞いてくださってもいいですし、ご自由に館内の展示をじっくり見て回ってもかまいませんから」
ということで、ここではたっぷり40分近い時間が与えられる。
勝海舟の書から始まり、開国以降の日本の海事の歴史を語るのに、これだけすごい資料の宝庫は見たことがない。日清、日露戦争時の将校達の書や遺品、広瀬武夫に関する貴重な資料、山本五十六の書や遺品などなど。第二次大戦のものでいえば特攻隊員たちの遺書は涙なくしてみることはできない。
「遺族から遺品をお預かりしてここに保存している」そういう意味では、ある意味ここは故人を偲ぶ神聖な場所。だからこそ帽子を脱いで、濡れた傘などを持ち込まずに、清い心と身体で見なくてはいけないのだ。
順路にそって周ったあと最後のコーナーには卒業年ごとの集合写真が閲覧できるようになっている。真之も、広瀬武夫も、発見!
こうしてあっという間に時間が過ぎ、再び延々と広い敷地を歩いて戻り、さっきの集合場所にて解散。土産物コーナーでグッズを買い、そういえばお昼も食べそびれていたので食堂で海軍カレーと穴子丼を。自衛隊の施設とはいえ、メニューも豊富でなかなかおいしい。


それにしても、もうちょっと教育参考館にいたかったな。明治の海軍が極めた栄華と、昭和の海軍のおかした過ちと。こうして貴重な海軍の資料を見るたびに、平和を祈らずにいられない。息子もただの海軍オタクで終わることなく、今回の旅で見たものすべてを心に刻み、その先にある大切な何かを感じとってくれることを願ってやまない。
さて、すっかり遅くなってしまったけれど、今日中に果たさねばならない大切なことが広島で待っている。Nの頭の傷口消毒だ。今度は陸路で一気に広島へ。
広島市の休日診療は、整形外科なら整形外科医院、内科なら内科の病院といったように診療科目ごとにいくつかの個人開業医が当番制で病院を開けるシステムになっている。あらかじめ電話して事情を説明していた病院へはナビで迷わず到着。

Nはあみあみキャップで遊ぶくらいの余裕ぶり。さほど待たされることなくすぐに診察室へ。物腰穏やかな小さな声で話す先生は
「うん、きれいに縫えてますね。傷口もきれいだ」
ああ、よかった~。
「ネットも、もうかぶらなくていいでしょう。糊のようなスプレーで傷口をコーティングしておけば大丈夫ですから」
お風呂はもうちょっと我慢だけれど、あとは東京に帰ってから一週間後くらいに抜糸をすれば大丈夫らしい。ちょんちょんと消毒をしてもらってる間も、シューッと冷たいスプレーを患部にかけられている間も、後頭部を先生に差し出して、うなだれポーズでひたすらじっとしている姿はいつもの暴君とは正反対にしおらしく、おかしくなってしまう。海軍づくしの一日を送りながらも今日一日ずっと抱えていた不安と緊張がすーっとほどけていくよう。
ホテルにチェックインし、一休みしてからタクシーで今夜のお店に向かう。ある意味、これは私にとって今回の旅におけるもうひとつのメインイベント、
ある男性との再会が待ち受けている。いや、再会ではない。実をいうと初対面だ。
イタリア料理店「ラ・セッテ」。この店のオーナーシェフは、私が14年前に修行していたイタリア・ピエモンテ州のリストランテ「カステッロ・ディ・ヴぇルドゥーノ」の、いってみれば兄弟子にあたる人。といっても私が厨房に入る直前に日本へ帰国してしまったのでお会いしたことはない。ピエモンテには外国人向けの本格的料理学校があるのだが、そこで勉強した後の研修期間としてこのリストランテで働いていたという「ヒデ」という青年がいかに働き者でチャーミングかを私は毎日厨房のおばさんたちから聞かされたものだ。ランゲ丘陵のぶどう畑が広がる片田舎のヴェルドゥーノは、今でこそ日本人観光客も訪れ、厨房に入る日本人もその後何人かいたようだけど、当時はわざわざこんなところまで来る東洋人はいなかった。それゆえずいぶん珍しがられたものだけど、ヒデさんが日本人に対する免疫をつくっておいてくれたおかげで、私とおばさんたちとの垣根は最初からなかったようなものだ。
サラリーマンの地位も捨てきれず有給をまとめどりして料理修行に来るようなふざけた志の私が、一生を賭ける思いで料理の勉強をしに来ていたヒデさんの妹弟子ヅラするのは本当におこがましかったのだけど、おばさんたちから「日本は小さいんだから、みんな知り合いでしょ?」くらいの勢いで渡されたヒデさんの住所にあててご挨拶の手紙をさしあげたのがきっかけで、以来、細々と年賀状だけは交換しつづけていたのだ。
そのヒデさんが故郷の広島に、奥様と二人で満を持してお店をオープンしたのが10年前。いつか広島に行ってお店を訪ねたいと思いを、やっと果たせる時が来たのだ。
タクシーの運転手さんにお店の名前を言うと、一発でわかってくれた。すごいな、有名なんだな。
「やっと会えましたね!」
14年越しの願いがかなってご対面できたヒデさんは、想像していたよりちょっと太っていて、優しそうでシャイな感じ。
「Mくん、大きくなりましたね」
年賀状だけでしかご存知ないはずなのに、息子たちの名前まで覚えていてくださる。
広い店内は、家族連れやカップルでほぼ満席。ガラス越しの見える厨房からはヒデさん率いる若い見習いシェフたちの活気が伝わってくるよう。ホールのスタッフも気持ちいいくらいきびきびとしていて、何より奥様がしっかりと支えてらっしゃるのが伝わってくる。
コースメニューの魚料理をお薦めの魚に変えてくださったり、子供達用に特別にアレンジしてくださったり至れり尽くせり。
あみあみ帽の取れたNは、髪の毛はべったりしてるものの、野獣のごとき食べ方も復活。昨日の晩、3針縫った子供にままるで見えないほど。

ニョッキもタヤリンも、これぞ懐かしいあのヴェルドゥーノの生地そのものを再現しながらも、日本の季節の食材に合わせたアレンジで、単にコピーではないヒデさんならではの料理として完成されている。お見事。



ドルチェの、中でもパンナコッタはこれまたヴェルドゥーノのレシピの味だ。私もよく作るのだけど、娘の代にシェフが変わった現在のヴェルドゥーノのでは定番から消えてしまったメニューだけに、こうして私とヒデさんが遠い日本で密かに伝統のレシピを受け継いでいるのだと思うとちょっと感慨深い。なあんていったらおこがましいか。


心ゆくまでおいしい料理を堪能させていただいたうえに、なんだかすごーくお安くしていただいたようで、本当に申し訳ないですヒデさん。イタリアの片田舎と、広島と、東京。不思議なご縁に感謝しながらお店をあとにする。
海軍めぐりに興奮し、思わぬ事故におろおろし、14年越しの対面に感動し。んもう今回の旅、心がいくつあっても足りません。
スポンサーサイト