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年の瀬に今更ふりかえる今年後半のこと①はちバーバ

夏のイタリアから帰国して、特に忙しかったつもりはないのだが、でもこれといって自由な時間もなく、気がつけば半年近くもブログに手をつけられないまま今年も終わってしまう。これって、やっぱりすごく忙しかったということなんだろうな。認めないと。
今更すぎてお恥ずかしい限りだが、この期に及んで今年の後半戦を振り返ってみたいと思う。

イタリアから帰国早々、伯母の病状が芳しくないと一報が入る。
そして一週間後の8月8日、妹である私の母の誕生日に、静かに息を引き取った。親戚の少ない一族にとって、これが今年の最もつらい出来事であったことは言うまでもない。4月末に貧血で倒れたのを機に末期の癌が見つかり入院、それからたったの4ヶ月だ。
以前にもふれたことがあるかもしれないが、私の父は乳児の頃に両親を亡くした天涯孤独の一人っ子。八王子の石屋が実家の母は、姉がひとりいるだけの二人姉妹。だから「親戚」といえば八王子の母の実家くらいしかない。私が幼い頃は「はちょーじ(はちおうじ)=親戚の家」を意味する言葉だと思っていたくらい。土曜も仕事をしていた父を置き去りに、姉と私は母に連れられ毎週のように八王子に行っていたほど。
終戦後、高校の教師をしていた伯母は、そこで同僚教師だった伯父と知り合い、あの時代に珍しい恋愛結婚。陸軍士官学校上がりの九州男児(しかも長男)を婿にもらう。私が物心ついたときにはすでに伯母が石屋の後を継いで女だてらに切り盛りしていた。その伯母のことを私と姉は幼少の頃から「はちおうじ」+「バーバ」で「はちバーバ」と呼んでいたが、考えていたら今の私たちよりずっと若かったはず。ずいぶんだなと思うけど、それだけ落ち着いていたというか、まだ祖母も健在だったというのに、石屋の長としての風格があったからだと思う。
はちバーバの子供は年子の娘二人。つまり私の従姉たちで、それぞれ私より10歳と9歳年上。私と姉と、言ってみれば4姉妹みたいに育つ。その「末っ子」だった私は、自分でいうのもなんだけど、祖母にも、従姉たちにも、そしてこの伯母にも一番かまってもらったと思う。
伯母の助手席に乗りお寺への営業まわりにくっついて行くのも好きだった。八王子にはその昔、伊勢丹があって、地下の食品売り場へ降りる階段の踊り場にあったジューススタンドでソフトクリームを食べて帰るのがお決まりのコース。でも小さい私はソフトクリームが溶けるスピードに追いつけないので「どれ、りっちゃん。はちバーバが、ちっと食べてやろう」そういって伯母がいつも、ソフトクリームの「うねうねの山」をぺたんとなだらかににしてしまう。ああ、あのうねうねの模様を舌ですくうのがいいのになあ、なんとかならないものかなあと、それだけがただひとつ、小さいながらに不満だったけれど。

そうそう、生まれて初めて家出した先も八王子だ。
小学校5年くらいだったろうか。母と大げんかをし、「こんな家出て行ってやる」と、当時、古い一軒家の一階にあった自分の部屋の窓から、学校のプールバッグに入っていたゴム草履を履いて脱出。夕方のラッシュアワーにTシャツ一枚とGパン、ゴム草履で京王線に乗った記憶は今でも頭の片隅にある。その時も、はちバーバは一言「ママに電話一本だけしとき」と言ったきり、家出の理由はついになんにも聞いてこなかった。
同じ姉妹でこうも違うものかというくらい、母が動のタイプなら伯母は静のタイプ。喜ぶにしても怒るにしても感情表現がストレートな母に比べて、伯母は感情の起伏を人に見せない。いつも冷静沈着で、嫌な事も自分さえ我慢していればいいという性格なのだろう、愚痴や文句を聞いた事がない。
こんなお母さんだったらこわいだろうなと思う反面、一切ぶれがない伯母からだと怒られたときは素直に猛省するし、誉められたときはものすごく嬉しかったものだ。
そんな伯母にも、私の従姉たちに子供が生まれて(これまた娘ばかり)孫ができると、それまでの私の「末っ子」の座は孫たちに奪われるわけだが、私と伯母の間にはそれまでとまた違う関係が成り立って行ったような気がする。専業主婦に落ち着いていった姪や娘たちには言わなかったこんな言葉が、私への伯母の口癖だった。
「あんた、どんなことがあっても仕事はやめちゃいけないよ」
いい時もあればつらい時もある。毎日毎日のご飯の支度や子供の世話を放り出したくなるときもあるだろうよ。でもね、あんた。仕事だけはやめちゃいけないよ、と。
はいはい、わかったよ、またそれか。と思っていたけど、この一年は特に、もう会社やめちゃおっかな、なんて思うようなことばかりで、その度に伯母の言葉を思い出していた。ぱっとしなくても、日の目をみなくても、粛々とやっていく。高望みをせず、まずは目の前の事をこなしていく。まず現状を維持する努力をしなければ、上にはいけないのだから。そんなことを伯母は言いたかったのかもしれない。
戦後の職業婦人を、まさに地でいった人。でも身の丈以上のことを企んだり、大きな賭けに出たりすることは絶対にしなかった人。そして何より祖父から受け着いた石屋と、女しかいない一族だけど仲良く賑やかに暮らしていけることを、ものすごく大事にしてきた人。
現実を嘆き、現実を通り越した先の高望みばかりしている自分だけど、こうしてた伯母の生き方にこそ、もしかしたら大きなヒントがあるのかもしれない。
従姉たちが実の母を失った悲しみやこの先の様々な苦労に比べたら、私のそれなど引き合いに出すのもおこがましいけど、私の中では母や父とはまた違う、でもかけがえのない大きな存在として、伯母はいつまでも私の心の中で、私に檄をとばし続けてくれる。そんな気がして仕方がない。

ところで、通夜が終わった夜に、実は私たち夫婦と長男Mにとって6~7年越しで夢が叶うことになっていた大きな予定が入っていた。それは再結成したサザンオールスターズのコンサート。3歳くらいの時にたまたま聞かせた曲にハマって以来、Mもファンの仲間入り、いつか子連れでコンサートに行けたらいいねと言いながらサザン解散。5年待ってようやく手に入れた機会だった。
「りっちゃん、行っておいでよ。それは行かなくちゃ。おばちゃんだって絶対行っておいでって、そう言ってるよ」
通夜の席で20~30年ぶりに会った近所の三兄弟のお兄さん(今はおじいちゃんの人もいるけれど。笑)たちがそういって背中を押してくれる。確かにそうかも。伯母なら、自分のために予定を変更するなんて、そんな余計なことはしてくれるなと言いそうだ。
幸い、八王子から会場までは横浜線で一本。親戚のみんな、そして近所の皆さんに甘えて精進落としの席に次男を残していざ会場へ。そういえば、私だけが勝手に思ってただけかもしれないけど、つきあってるときから子供ができたら家族でサザンに来るのが夢だったかも。

「サザンオールスターズ灼熱のマンピー2013年夏」。いろんな思いが交錯して、涙がこみあげてくるのを止められない。
はちバーバ、今まで本当にありがとう。そして、こんな大変なときに抜け出してきてごめんね。でもありがとう。最後の最後まで、てか、死んじゃったあとまでも、本当に本当にありがとう。

2013_12_20
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ritz

広告代理店コピーライター
イタリア家庭料理研究家
HP→http://www.ristorante-ritz.com
著書に「トルテリーニが食べたくて」
日本ソムリエ協会認定ワインアドバイザー
イタリア料理、子育てから、オペラ、日本の旅、秘湯まで。

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ritz

Author:ritz
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