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〜6月半ば〜
ローマを目指しながら、ウンブリア州を南下する旅。
次なる宿泊先は、イタリア仲間のYKさんが紹介してくれた、ペルージャ北部にできて間もないおしゃれなヴィラ「Le Terre del Verde」、その名も緑の大地。
…なんだけど、目の前に広がるのは、かなしいかな、雨の大地だ。
ウンブリアもずっとこんな調子で、昼間はお天気なのに、夕方には決まって雷雨。この日も、ちょうど最後の峠越えにさしかかったあたりで大雨に見舞われる。細いくねくね道がつづく山道だというのに、数メートル先も見えない豪雨。前の車のテールランプを頼りにしないと走れないからスピードも落とせない。こういうときばっかりは、さすがに運転手(夫)を尊敬せずにいられない。いや、ほんと。
峠を越えると、宿への道は意外と簡単だった。広大な田園地帯の中に、中世の建物を意識したと思しきおしゃれな塔や施設が点在している。
メイン塔をさがし、目の前に車を停めて飛び降りる。たった数メートル走っただけで上から下までびしょぬれになった姿で飛び込んできた私を迎えてくれたのは、フロントの若い女性スタッフ。私が口を開く前に
「シニョーラ・ヤマナカですね。ようこそいらっしゃいました」
と、私のぬれた手に握手を求める。
「私どもの厨房にご案内するようにと、フェデリーカから承っております。シェフも楽しみにしておりますので、厨房にスタッフが入り次第、お部屋にお電話いたしますね」
日本語でいえば、こんな感じになるだろうか。それはそれは丁寧な言葉遣いにまずビックリ。そして、ここまで話がきちんといきわたっていることに、二重にビックリ。こんな“きちんとしたイタリア”が、あっていいのだろうか!?
予約の際にメールでやりとりしたマネージャーのフェデリーカに、実は、私は事前に厨房に入らせてもらうお願いをしていた。というより、たった一泊だけの中継ぎ宿泊とはいえ厨房にどうしても興味が湧いてしまう私の図々しい企みを、フェデリーカの方が察してくれたと言った方が正しいかもしれない。彼女自身は折りしも急な出張が入り、残念ながら会えないことはわかっていたのだが、しかし、会ったこともない日本人のために、ここまでスタッフに話をきちんと引き継いでくれていたとは…。
通された客室塔二階の部屋は、あれ?おかしいな、一番安い部屋でいいと言ったのに、角部屋だし、ずいぶんとまたゴージャスな部屋ではないか。
大きなツインベッドに、瀟洒なクローゼット、ネコ足テーブルの上には、なんとフルーツの盛り合わせに、ビスコッティまで置いてある。
「ママ、ここ、ホテルなの?」
息子が素朴な疑問。わけもない。イタリアといえば、山奥の農家の家ばかり渡り歩いている私たち、こんなおしゃれな宿(いやリゾートというべきか)に泊まるのは初めてだ。
「…なんだか、落ち着かねえよ、オレ…」
おろおろと部屋の中を行ったり来たりしている夫と息子を残し、私はフロントに呼ばれて下へと降りる。
「今からシニョーラをお連れすると、シェフに伝えて。メイン厨房の方にお連れすればいいね?」
フロントのお兄さんは厨房のスタッフに電話を入れると、私を厨房へと案内してくれる。
しかし、ジャーナリストでも上顧客でもない分際で、こんなに丁重に扱われてしまうとかえって困ってしまう。相当、格調高い厨房に違いない。どんな風格のあるシェフが出てくるのだろう。きっと、客だから仕方なく相手をしてくれるんだろうなあ。などと考えていくと、お兄さんについていく私の足取りもつい重くなる。
まだ暗いホールに入る。立派なテーブルクロスや洒落たイスの間を抜けるごとに、厨房の敷居がどんどん高くなっていく気分だ。
「さ、どうぞ。こちらが厨房です。今シェフを…あ、ヴィート!ちょうどよかった!」
目の前に立っていたのは、長いくせっ毛をまとめたバンダナ頭に、白いシェフの服をまとった少年のような若者。
「よろしく。ヴィートといいます」
少し照れるように視線を落とし、私に手を差し出した彼こそが、この高級レストランのチーフシェフであることを理解するまでに、数十秒ほどかかってしまった。
小学校の教室4つ分くらいはゆうにありそうな広くてきれいな厨房。ヴィートは、その真ん中に位置する広い作業台へと私を連れて行く。
この作業台がヴィートの定位置なのだろうか。ここを中心に、野菜を洗ったり切ったりする場所から、お皿を盛りつける場所まで、作業の全工程が取り囲む。
「ヴィート、今日の生パスタのことだけど…」「ヴィート、こっちはもう火にかけていいかしら?」まさに真ん中にいるヴィートを核に、若いスタッフたちがテキパキと作業を進めていく、そのチームワークを見ているだけで気持ちがいい。
「本当は、わかりやすい料理を教えたかったんだけど、今週は、たまたま明日もあさっても、100人のウエディングパーティがあって、今夜もその準備にかかりっきりなんだ。申し訳ない…」
申し訳ないだなんて、とんでもない。こうした規模の大きいレストランでは、日々のメニューの下ごしらえは何日か分を一度に済ませておく場合が多いことを私だって心得ている。厨房の様子が見られるだけで十分なのだ。
ヴィートが冷蔵室から取り出してきたのは、なにやら大きな肉の塊。広げてびっくり、なんと、豚まるごと一匹である。
内臓類こそ取り除かれているものの、グロテスクな豚の頭はしっかりついたまま。ヴィートはまずは骨の間の筋を黙々と取り除いていく。それはまるで女性の身体でもさわるかのように丁寧で、しなやかで…。豚の屍をいつくしむようなやさしい手さばきを見ていたら、なんだか豚の顔やそのまつ毛までがいとしく思えてくるから不思議だ。
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「ねえ、マチェドニア(フルーツポンチ)食べる?」
ヴィートの片腕を勤めるセカンド・シェフが私にいろいろと世話を焼いてくれる。
「食べるよね?ジェラート(アイスクリーム)はつける?」
い、いや、結構です、と発した私の言葉は、もはや「マチェドニア」にではなく「ジェラート」に対するそれとなり、気がつけば、私の目の前には、どんぶりサイズのマチェドニアが。
えー、こんなにたくさん、食べられない。それに、なにも豚の頭のすぐ横に置かなくたって…。とかなんとかいいながら、しかし、あまりのおいしさに、あっという間に平らげる私。
「やっぱりジェラートも食べたいだろ?」
いやいや、もう十分です。
「ほんとに?ほんとにいらないの?ほんとは欲しいんじゃない?」
ほんとに、ほんっとにもう十分。これ以上食べたらごはんが入らなくなっちゃうってばー。
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いつもそうなんだけど、どんなにしゃちほこばった高級レストランでも、厨房に入るとまるで家族の中にいるような居心地のよさがあるのはなんでだろう。厨房には、なんの気取りも、ごまかしも、見栄もない。だからだろうか。でも、だからこそ、厨房に入ると自ずとその宿の真の姿勢が見えてくる、そこがまた厨房に入る醍醐味でもある。
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開いた豚肉には、ラードや香草、塩、コショウをすりこんだあと、フィレ肉を包んでくるくると巻き、「丸ごと豚のロール焼」とでもいうべき料理になる。
慣れた手つきで糸を巻きながら、ヴィートは、小さな声で自分のことを少しずつ私に話してくれた。
つい最近、チーフシェフになったばかりであること。自分はウンブリアの人間ではなくプーリアの出身であること。母の料理を見て育ち、料理人に憧れて15歳でこの世界に入ったこと。イタリアの各地で修行を積みながら、流れ流れてこの地にやってきたこと。そして、数年前に地元の女性と結婚したこと。
「だから、ここからはもう逃げられないんだ」
そういって、クスっと笑いながら、左手の薬指の指輪を差す。
そうか、もう結婚してるのか…、って、やや残念な気持ちになっている私。
ふらりと、ポロシャツ姿の体格のいい初老の男性が入ってきた。
ここの経営者だと、セカンドシェフが私にささやく。おお、彼が噂のフェデリーカのパパ、ヴィンチェンツオ社長か!
「どうだい。調子は」
ニコニコと厨房のひとりひとりと冗談を交わしたあと、私たちの作業台へやってきた彼は、私を訝しがるわけでもなく、かといって特別扱いするわけでもなく、世間話をしてまた厨房の外へ消えていく。彼が一瞬だけ登場したあとの厨房は、ほんのちょっとの緊張とともに、いっそうの活気を帯びたように感じるのは気のせいだろうか。
さて、豚の丸焼きをひたすら5本繰り返すうちに、気がつけば、ディナーのお客さんもとっくに入り始めている。大変!夫と息子のことをすっかり忘れていた。
本当は、自分の夕食なんて何時になってもいいから、ここでずっとヴィートの作業を見ていたいのだが、不慣れな高級リゾートの高級レストランで、息子と二人だけにはしないでくれと、夫からは事前にお願いされていたのを思い出す。
「残念だな。これが済んだら、羊の料理を教えようと思ったんだけど…」
私だって残念。でも、あなたの料理を食べないことには、私としては、それも残念。
私は厨房に未練たらたらのまま、急いで部屋に夫と息子を迎えに行く。
さて、家族3人で、今度は厨房とは打って変わってエレガントな雰囲気のリストランテへ。こんな落ち着きのない5歳児を連れて入っていいものかと恐る恐る足を踏み入れた私たちだが、そんな不安も、最初のプリモピアットを一口食べた瞬間に吹っ飛んでいく。
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サルシッチャとトマトのパッパルデッレ。鳩のラグー(ミートソース)のタリアテッレ。子羊のローストに、仔牛のグリル。シンプルな材料しか使っていないはずなのに、見た目も味わいも、とっても上品で繊細。そして、とことん優しくて穏やか。素材本来の力が体中にゆっくりとしみわたる。
おや、隣のテーブルにふらりとやってきたおじさん、一人旅かしら。と思いきや、なんとヴィンチェンツオ社長ではないか。
山盛りのプリモパスタをささっと頬張り、ワインを二杯ほど飲んだら、私たちに目配せをして早々に外へと消えていく。毎日、こうしてさりげなく客に混じって夕飯なのだろうか。
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ドルチェは、洋ナシのセミフレッドに、リンゴのストルーデルはちみつソース。これも名前だけ聞くと、ありがちなドルチェだが、これがまた奥深い技にため息しきり。
ああ、く、くるしい〜。敷居の高かったレストランも、食べ終わってみれば、街中のトラットリアで思う存分食べた後と何一つ変わらない、開放感と充足感に満ちあふれる。
ひとえに、シェフ・ヴィートの清々しくて素朴な人柄が、料理のすべてに表れているからに違いない。
厨房のヴィートにお礼を言ってから部屋に戻ろうと席を立った瞬間、なんとヴィートが後ろに立っていた。
「今日はどうもありがとう」
そんな…、お礼を言いたいのは私の方なのに。
ヴィートは、料理に対する情熱に、プロもアマチュアもない、と話す。そして、こうして同じ料理に対する志を持った外国人に会えたことが心から嬉しかったと。
「Soddisfazione」ソッディスファツィオーネ。
料理に対する気持ちを、ヴィートはこう表現した。英語で言えばSatisfaction、日本語に訳せば“満足”“喜び”。しかしそんな陳腐な言葉とは全く違う熱意や気持ちが、イタリア語の “ソッディスファツィオーネ”には含まれているように常々思うのだが、ヴィートがかみ締めるように発する“ソッディスファツィオーネ”という言葉には、いっそう深くて重い意味が込められている気がしてならない。
ウンブリアになんのルーツも持たない人間が、ウンブリアの伝統料理が売りの高級リストランテで指揮を取る。一瞬、誰もが少なからずも偏見をもつことだろう。しかし、この若き苦労人シェフは、故郷と同じくらいこの地を愛し、この地の素材に敬意といつくしみを持って接している。これ以上、彼に何が足りないというのだろう。
少なくとも、彼の原点である「マンマの味」が、南北問わず全てのイタリア人に共通のルーツである限り、彼の料理はイタリア料理を愛するすべての人に、愛され続けるに違いない。
感傷に浸りながら話し込む私たちを邪魔するように、息子がちょろちょろとホールの中を駆けずり始めた。
「子供って…、かわいいね。これもまた、人生におけるもう一つの“ソッディスファツィオーネ”だよね。僕は、残念ながらまだ味わってないけれど…」
年を聞くと、ヴィートはまだ31歳だという。彼のこの先の人生には、まだまだいろんな可能性が広がっているんだろうな。
翌朝は、昨日の大雨がうそのように青い空が広がった。青々とした6月の若葉に、昨夜の雨のしずくがキラキラと光り、いっそうまぶしを増している。ああ、これぞTerre del Verde、緑の大地。いや、新緑の大地だ。
チェックアウトを済ませようとフロントに下りると、昨夜とは違う初めて目にする初老の男性スタッフが
「昨日は、厨房に入られてみて、お役に立てましたか?」
と来たものだから、またビックリ。おまけに、
「ちょっとお待ちくださいね。今、シェフがご挨拶に降りてまいりますので」
えっ!?またきてくれるの?と、またしても二重にビックリ。
昼の結婚パーティー用の準備で忙しい最中だろうに、厨房を抜け出してわざわざ見送りに来てくれたヴィートと最後の挨拶を交わし、宿を出る。
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さて、車に荷物を積み、門に向かって広い敷地を進んでいくと、今度はヴィンチェンツオ社長の車と鉢合わせ。
こんな大きなヴィラで、経営者に出くわすことなんてめったにないのが普通なんだけど、たった一泊の間で、彼とはなぜか要所要所で出会う。
「やあ、もう出発かい?今度はいつ来るのかな?」
これまたわざわざ車から降りてきてくれた彼に、私は今回のお礼を言いつつ、思わずこの宿に関する最大の疑問を投げかけてしまう。
どうして、この宿のスタッフは、こんなレベルが高いのか、と。
だって、イタリアではどんな高級ホテルに、どんな高いお金を払ったとしても、ホテルマンの礼儀正しさや立ち居ふるまいを、日本の一流ホテルのそれ比べてしまうと、格段にレベルが低い。
しかしここでは、業務電話中に客が来ればすぐさま電話を切るし、こちらが声をかけなくても荷物を下ろすのを手伝いに外に出てきてくれるし、一組ごとの客の行動を全スタッフが共有しているし…、日本では当たり前かもしれないけど、イタリアでは考えられないホテルマンたちの姿がある。
「そう?そうかなあ。特にこれといった指導はしてないよ。私と、娘のフェデリーカが、毎日できるだけ彼らと接するようにしてるだけさ」
そうか、そうだったのか。だから、厨房にふらりと入ってきたり、客に混じって夕飯を食べたりしていたのか。
「でもね、なかなか難しいよ。私はね、あんまり礼儀正しすぎてもよくないと思うんだ。ここはやっぱりイタリア。イタリアらしいカジュアルで陽気な接客スタイルだって必要。そのバランスを彼らに教えるのが、これからの課題だと思ってるんだ」
私は重ね重ね、驚いてしまった。というのも、それこそが、私が彼らの礼儀正しさに感動しながらも、そのうえでこの宿に対して私が感じた「何かが足りない」ものだったからだ。
できてから、まだ2年と経たないTerre del Verde。今度来るときは、どんな風に進化を遂げているのだろうか。
そして、ヴィラを抱くこの新緑のようにすがすがしい才能を秘めたシェフ、ヴィートは、どんな花を咲かせているのだろうか。
想像するだけで、ワクワクしてくる。
- 2008/07/21(月) 00:07:55|
- イタリア料理修行(Viaggio)
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